何か書こう

考えるための日記

自身の子供時代から街のバランスの大切さを思う

神戸の児童連続殺傷事件の事件の衝撃は今でも残っている。そのときの少年が本を出したときき、また当時のことを思い出した。事件のあった土地は私が住んでいた土地と似たような神戸のベットタウンとして開発された土地であり、昭和の高度経済成長からバブル時代にかけて、そんな街がたくさん神戸の北から西にかけて広がっていた。

 

神戸は大きい市で、南に神戸港、北に六甲山があり、山も海もあるとても美しい街だ。震災が起こる前まではとてもハイカラで、古くからのしゃれた洋館がたくさん建ち、異国情緒あふれる街でいきかう人もおしゃれな人が多く、神戸市民はそのことを誇りに思っていた。

 

私の住んでいた地域もおなじような神戸のベットタウンだったので、自分の子供のころのことを思い浮かべてみたが、地域の環境として何か悪いことがあったのかと考えてみると、少しひょっとしたらそういうことも人間の精神に影響をあたえるものなのかなと思うこともあるので、書いてみる。

 

まず、今になって思ってみると、神戸の中学校は男の子は全員丸坊主、女の子もすごく厳しく髪型などはチェックされていたなどめちゃくちゃ厳しかった。中学校のなかはとても上下関係が厳しく、上級生に対してすれ違うときは必ず頭を下げなければいけないという不文律があった。それができない子は体育館の裏に呼び出されたりして1人対大勢の上級生にいじめられるということもあった。学校は知らないはずはないと思うが、先生がそのことに言及したようなことはなかったと思う。そのことはとても中学生活を窮屈にした。

そのような理不尽なきまりごとはクラブ活動においては余計に厳しく、それ以外の場所でももちろん強制された。今にして思えば非常に軍隊的だった。体罰も普通にあった時代だったため、クラスがうるさいという理由で全体責任として生徒全員が先生から棒で殴られたりした。ものすごい管理教育だなと思う。

 

また、新興住宅地の特徴として、入居時に大体そこそこ若い夫婦に子供連れというパターンの家庭が多い。いっせいに町全体が新築分譲となるため、ちょうどそこから長い住宅ローンを組み、子育てをしという世代が一斉に入居することになる。例外はあるが所得もそこそこあり、子供の教育にもある程度熱心というかなんかわりと近いタイプの家庭が多かった。もしかしたら、そこに多様性というものはあまりなかったかもしれない。子供のころなので気づかなかったが、同じような価値観、同じような生き方、教育観のような人たちが集まっていたのではないかという気がする。ちょっと違うタイプの家庭はやはり目立ったし、そういう目でみられていたように思う。そこにちょっと変わった子供がいたら、それは受け入れてもらえなかったかもしれない。

 

そしてもしかしたら、そういう学校での暴力性は子供に暴力をふるうことの正当化を許すのかもしれないし、決まりごとの厳しさは息のつまるようなストレスを産んだかもしれない。多様性のない社会は子供の心に他者への許容性のなさを産んだかもしれない。

 

少年の住む地域と時代と全く同じではないだろうが、日本社会がなかなか変化しない社会であることを考えると共通点はあったのではないかと思う。地域の特徴とかその時代の背景とかのなかで、それが犯罪の原因とはいえないし、ほとんどは家庭とか環境とか性格とかが影響するのであろうが、全く関係がないともいいきれない。もちろん同じ環境でもほとんどの人が犯罪を犯さないわけで、絶対してはいけないことなのだけれども、その街のどこかに、何かひとつでも少年が犯罪にむかうものをひきとめるものがなかったのかと思うと本当に残念だ。街の機能として、ただ生活したり、働いたりするだけではなく、人の心を休めたり、心を洗うことのできる場所を持つことが必要なのではないか。欧米の人が教会にいったり、公園に行って散歩したりできるように、何かそれに代わる場所というのも生活圏のなかにあることが必要なのではと思う。